青空侍のシネマ徒然日記

映画や音楽について、徒然なるままに・・・

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milk2.jpg マイケル・ジャクソンが死にました。享年50(歳)。早すぎる死とともにあまりにも寂しい最期に、悲しいという言葉では表現しきれない複雑な思いがこみ上げてきました。マイケルの生涯はいったい何だったのか。最高の成功を収め、富も名声も手に入れたとき、一人の人間として彼が求めたものは・・・。
 黒人のミュージシャンとしてこれほどまでの成功を収めた人を私は知りません。他のジャンルに目を向けても、同様のことが言えるのではないかと思います。それ程、彼の存在は特別でした。彼の音楽は人種も宗教も時代さえも超越しているように感じられました。マイケルが歌い踊るとき、世界は一つになれるかも・・・、それが彼の音楽でした。
 しかし、彼は黒人であることを自ら否定しました。どんどんと脱色されていく肌。とがった鼻。ふたつに割れた顎・・・。全てを手に入れたとき、彼が求めたことが白人になることだったとは。そんな彼を世界中の人たちはどう見ていたでしょうか。特に、同じ肌の色を持つ人たちは。私は吐き気がしました。彼の音楽は永遠ですが、彼のこの愚行は、どうしても受け入れられるものではなかった。
 マイケルの死にあたって思うことは、彼もこの時代の犠牲者であったということです。黒人であることが今の世の中のような価値観で捉えられるものでなかったとしたら、このような彼の死はなかったはずです。もっともっと素晴らしい音楽が生まれ、彼とともに私たちはもっと幸せになれたかもしれない。そう考えると、残念でなりません。

 マイケルの死の翌日、この映画を見ました。

 ハーヴィー・ミルク。享年48(歳)。1970年代のアメリカにおいて、同性愛者であることを告白し、初めて公職に就いた男。同性愛者ばかりではなく、有色人種、労働者、高齢者など社会の底辺にあるマイノリティーのために立ち上がり、時代を切り拓いた男。
 私は、ハーヴィー・ミルクのことを、その名前すら知りませんでした。ラジオから流れてきた「ベンのテーマ」を聞いてマイケルを知り、映画に目覚め、アメリカに憧れていたあの頃、彼はマイノリティのために闘い、人々に希望を与え、社会を変革し、凶弾に倒れていたのでした。サンフランシスコで行われるゲイの行進を報じるニュースを面白可笑しく見ていた記憶はあるのですが、その中心に彼がいたことなど知る由もなく・・・。
 
 キング牧師のことは知っていました。でも、ミルクのことは知らなかった。この違いは何か。ここで、それを論じることはおいておきましょう、ただ、2人の残した功績に、それ程の違いがあると私は思いません。ともにマイノリティーの人権確立に生涯を捧げたのです。

 ここで、気をつけたいことは、キング牧師やミルクが私たちの社会に新しい光を与えたのが、ともに私が生まれて以降のことであるということです。つまり、この50年の間に、人類はその長い歴史で犯してきた間違いに気づき、新たな歴史を作ってきたわけです。50年前に、誰が今のような社会を想像できたか。そして、そんな時代を私たちは生きている。この事を忘れてはいけません。私たちが享受している自由も人権も、彼ら先人の命をかけた闘いがあったからなのです。そしてもうひとつ忘れてはならないことは、まだまだ十分ではないということと、世界には光が当てられていない闇がたくさんあるということです。そこに光を誰が当てるのか。当て続けるのか。我々に残された大きな宿題です。

 私が人類に絶望しない理由。

 それは、我々は確実に進歩しているということです。人類の歴史は、人権確立の歴史であると思います。その過程で流された血と涙。様々な犠牲の上に私たちの人権は成り立っているのです。人権は与えられるものではなく自ら獲得するものである。希望を捨てない者にこそ、それは許される・・・。キング牧師やミルク、その他数々の先人たちがそのことを教えてくれています。

 マイケルが手にしようとしていたものは何か。「We Are The World」で、彼が全世界に発信したメッセージを思うとき、彼もまたミルクたちと並び称せられる偉大な人物であると思います。それだけに、彼の寂しい死は許せない何かを感じます。何かが狂ってしまったとしか、言いようがありません。

 マイケル、50歳。ミルク、48歳。

 2人の生涯を我が身と重ね合わせたとき、我が人生とは・・・と、考えずに入られません。もう一度、自分の生きる意味について、少しばかり考えてみたいと思います。そんな気持ちを思い出させてくれたこの「ミルク」という映画は、私にとってとても重要な作品となりました。

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friendsdvd とうとう観てしまいました。
 少年時代に初めて観たときの強烈な体験は、40年近くの歳月を経て純化され、増幅し、もはや私自身の一部として血となり肉と化したかのような気もします。この映画こそが、我が恋愛の原体験として、その後の恋愛観に最も影響を与えた作品かもしれません。理想の女性像にしても、どこかにアニセ・アルビナの面影を追ってきたような・・・。そんな人、私の他にもいるのではないでしょうか?同世代の人なら、絶対にいると思います。「いやいや、トレシー・ハイドでしょ。」「絶対オリビア・ハッセーだ。」と言う人と同じくらいに(笑)。

 あの頃「小さな恋のメロディー」が大ヒットした記憶があります。大人社会に抵抗する子どもたちの可愛らしい奮闘ぶり。ビージーズが歌った「メロディーフェア」の美しい調べとトレシー・ハイドの愛らしさ。マーク・レスターの絵に描いたような美少年ぶりとジャック・ワイルドの悪ガキぶりが、当時の日本の少年少女の心を鷲掴みにしたものです。でも、私にはつまらなかった・・・。トレシー・ハイドも好みじゃなかったし(笑)。(この映画、英国と米国ではヒットしなかったようです。)

 同じ年に公開されたのが、「フレンズ~ポールとミシェル~」。14歳の少女と15歳の少年の恋愛と出産というショッキングな内容は、先の「小さな恋のメロディー」とは違って家族と一緒に観ることは出来ない、当時の少年たちにとっては少しばかり罪の意識を感じさせるものでした。(当時はみんな純情だったんです。)
 しかし、主演のアニセ・アルビナの圧倒的な魅力と美しい映像、エルトン・ジョンのテーマ曲。そして、可愛らしくも純粋でひたむきな2人の愛の物語に世界中の人々が共感し、こちらは世界的な大ヒットをしています。それは、少年少女の恋愛(性)は古今東西における普遍的なテーマであるにもかかわらずまだまだタブー視されていた時代にあって、それを真っ正面から描ききったからである思うのです。私は、密かに、そして熱狂的にそれを歓迎したのでした。(笑)

 ところが、この作品はその後長く闇に葬られてしまいます。つまらない作品がどんどんDVD化されていく中で、まるで忘れ去られたかのようにビデオでさえ手に入らなくなっていました。内容が問題なのか・・・。いや、問題となるような作品ではないはずだ・・・。一部の支持者(私も含めて)がネットの各所でその現状を憂い、DVD化を訴えること数年、ついに昨年の春にDVDが発売されます。この時の喜び!興奮!(笑)同じ思いを抱いた人々が全国にどれ程いたことか。

 DVDを手にして1年。いつ観ようかとずっと思いながら、その時を先延ばししてきました。理由は?・・・あまりにも自分の中で膨らみすぎた思いが、却ってブレーキをかけていたのでしょうか。ガッカリするのが怖かったんでしょうね。

 そして、・・・。

 やっぱり、素晴らしかった。

 この映画は、私の核心的な部分の重要な一部となっていたことを、改めて確信しました。「フレンズ」との出会いがなければ、私の人生は違ったものになっていたかもしれない、いや、なっていたと思います。映画の力はすごいですね。

 現代の若者が観て、私(たち)と同じような思いを抱くことはないと思います。でも、あの時代にこの作品が作られたことは、映画史上とても重要な出来事であったことは疑う余地もありません。このような作品を考えるとき、「映画とは時代とは切り離せないものである」とつくづく思います。

 自分の人生を創ってくれた映画。そんな映画との再会は嬉しいものです。これからも、この映画を大切にしたいと思います。

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manatu1.jpg  潜水艦を題材にした映画には「眼下の敵」という名作がありますが、どうもあの作品を意識して作られたようですね。でも、それにしては少し甘いかなぁ・・・。それなりに”おもしろく”は作られているのですが・・・。

 艦長同士が繰り広げる知恵比べの攻防もやや緊張感に欠けるし、玉木宏が演じているイ-77の艦長・倉本孝行の描き方も表面的で、なぜあのような作戦をとり命令を下したのか(特に「回天」に対する下り)ということの説得力に欠けるように思えました。その辺りが非常に残念です。これは米海軍駆逐艦パーシバルの艦長マイク・スチュワートについても同様で、設定では、米海軍きっての歴戦の勇士であり、日本軍の人間魚雷「回天」の攻撃で弟を失くしたことで、さらなる闘志を漲らせていた・・・ということですが、そこらが全く伝わってこないので、どうして命令を無視してまでイ-77にこだわるのかということが理解できません。
 だから、2人が死闘を通してある種の尊敬の念を敵将に対して抱く・・・といった展開に納得できないし(そのように描いていないかもしれないが)、感動のしどころを見失ってしまうわけです。誰にも感情移入出来ないんですよね。
 
 日本の戦争映画の場合どうして”恋物語”(もしくは”家族”)が添えられるのでしょうか。登場人物の背景を描くためなのかもしれませんが、それにしてはあまりにも安易な方法で、ほとんどの戦争映画の場合に失敗の原因になっているように思います。これが、戦争を時代背景とした恋愛映画だというのなら納得もできますが、泣かせるための演出であったり、客を集めるための手段であったり・・・と、ドラマの本筋とは関係ない”添え物”なんですよね。結局。日常を描くことで非日常である”戦争”というものを際立たせたいという意図があるのであれば、「ジョニーは戦場へ行った」とか「ディア・ハンター」くらいの覚悟を持って描いて欲しいと思います。
 今回も、「あぁ、またやってくれたなぁ・・・。」とちょっとしらけてしまいました。「出口のない海」を観たときも全く同じ感想を持ったものです。
 
 ラストをあのように描いたことで、あぁ、これは”お伽噺”だったんだなぁと思いました。また、現代の日本においては、このような戦争映画が受けるのかなぁとも。苦しくないし傷つかないしカッコいいし、スカッとするし・・・。でも、この映画を観た後に「夕凪の街 桜の国」をもし観たならば、戦争を描くこととはどういうことなのかということを深く考えずにいられなくなると思います。

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junkissa2.jpg
 日本映画が得意とするジャンルに”人情喜劇”なるものがあったと思います。「男はつらいよ」シリーズなどがその代表格でしょうけど、市井の名もなき人たちの日常を涙と笑いで綴ってくれた名作を、映画やドラマ、そして舞台でもたくさん思い出します。私たちは、そうした作品から教科書では決して教えてくれない人としての大切なことを学んできました。

 「純喫茶磯辺」

 ”何もすることのない日曜の午後の暇つぶしにピッタリな作品”というぐらいの認識で見始めたのですが、これが意外にもとっても上質の”人情喜劇”に仕上がっていました。ビックリです。

 ダメな親父としっかり者の娘。母は家を出て新しい家庭を・・・。ぐうたらな親父はどこか現実離れしていて夢見がち。死んだ父親の遺産でもって・・・。かつての松竹新喜劇なんかを連想させる筋立てに、宮迫博之、仲里依紗、麻生久美子、濱田マリ等の絶妙の配役で、気持ちよく笑いちょっぴりしんみりさせてくれます。見終えた後の爽快感は、「こうでなくっちゃ!」と拍手したいほどでした。

 決して大作ではありません。何かのメッセージを持った問題作でもありません。観たからといって何がどう変わるといったものは皆無だと思います。でも、こんな映画がある日常というのは、とても素晴らしいと思います。私たちを育ててくれたのは、こんな可愛らしい映画だったような気もするのです。

 とってもいいですよ。是非見て下さい。じんせいが、ちょっぴり楽しくなること請け合いです。

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