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毎年、その年の一本目にどのような作品を選ぼうかと思案するのですが、今年はすんなりこの作品を選びました。何故か?この作品を選ばせる雰囲気が、今の日本には充満しているのかもしれませんね。これは、私個人の気分的なものではなく、国全体の気分的なものだと思うのです。そうした気分を生み出している原因は何か?それを確かめるためにも、今年の一本目はこれにしようと決めた次第です。
映画館はほぼ満席でした。さすがに子供の姿はありませんでしたが、若者からお年寄りまで各世代の人たちが男女を問わず席を埋めていました。ヒットしているのですね。でも、みんな何を求めて観に来ているのでしょうか。
今回、これは私としては珍しいことなのですが、まず原作を読んでの鑑賞となりました。実は、今日の午前中まで読んでいて、読み終えた勢いで映画館に駆けつけた次第です。こんなことは、未だかつてなかったことで、少しばかり新鮮な感覚でした。ただ、そうしたことが正解であったかどうかは別として・・・。
さて、映画「永遠の0」ですが、作品の良し悪しは別として、ヒットしているのがうなずける出来でした。
まず、観やすかったですね。戦争を題材にした映画としては、私が観たものの中で最も観やすい作品の一つだったように思います。観客にあまり負担をかけない作り方・・・とでも表現すればよいのでしょうか。戦争映画にありがちな過剰なメッセージがなかったからでしょうか。
“反戦”がベースにあるのでしょうが、全てを否定しきれない曖昧さが全編に漂い、登場人物に共感も反感も出来ないまま淡々と観てしまったように思います。これは、私たち日本人の“戦争”に対する現在の基本的なスタンスなのではないでしょうか。なにせ、“戦争を知らない子供たち”が現役を引退してしまっている時代に突入しているのです。もはや“戦争”に実感を持つことなど不可能な日本です。だから、このような描き方が丁度よい・・・ということなのでしょうか。
“程よく軽い”んですね。
戦争、特攻、死、離別、戦後・・・。軽く描ける要素はないのですが、逃げ出したくなるような痛みや苦しみがそれ程伝わってこないのです。そして、決定的に欠落していたのが、戦争や時代に対する怒りですね。妙に達観しているというか・・・。
ただ、そうしたものが全くないというわけではありません。苦しくない程度に散りばめられてはいました。観終えた時にダメージを受け、トラウマにならない程度に・・・。この映画が受けているのは、そのあたりのさじ加減が絶妙だからなのでしょうか。
“零戦“というのも、今の時代が必要としている何かがあるのでしょうね。宮崎駿の「風立ちぬ」と「永遠の0」は対極にある作品だと思いますが、共に“零戦“を取り上げ、それが受けているのはどういうことでしょうか。“零戦“の持つ英雄的な面と悲劇的な面、その両面が我々の心を引きつけているように思われてなりません。
今の日本を取り巻く不安定で行き詰まった状況に風穴をあけるために、私たちには、“零戦“のごとく世界を震撼させ圧倒する何かが必要なのでしょうか。たとえそれが悲しい運命を背負ったものであるとしても。もし、そうであるとすれば、この風潮はとても危険な香りがします。
昨今の“零戦“ブームは、これからの日本の未来を暗示しているような気がしてなりません。
原作と映画について・・・。
これは仕方がないことですが、やはり原作との違いによって残念な思いをした部分があったことは否めません。それは十分覚悟をしていたことですが。
ただ、なんとも残念だったのは、新聞記者のくだりがばっさりカットされていたことです。ネタバレになるので詳しい説明は避けますが、マスコミと対峙できない映画製作者の弱腰が見え隠れし、この映画を撮った意味がぼやけてしまったように思えます。営業面を考えてのことだったのでしょうか。まぁ、その結果、誰もが観やすい映画になったかもしれませんが。
岡田准一は良かったです。作品全体に漂う清潔感は、彼の演技によるものだと思います。
山崎貴監督はあまり得意な監督ではないのですが、今回は特撮を前面に出していないところには好感が持てました。雑念を持つことなく、物語に集中できたのは有難かったです。どのように撮っているかなどは、観る側には関係のないことですから。
しかし、やはり人物描写が浅いですね。特に元特攻隊兵士の描き方が甘かったように思います。監督はどういう思いで演出したのでしょうね。やけにアッサリしているなぁというのが正直な感想です。
この監督は、この映画がどうしても撮りたかったのでしょうか。
ということで、この映画がヒットすることには納得しつつ、このような“程よく”軽い映画がヒットする日本映画の現状に不安を抱き、この映画をヒットさせる日本全体の気分には大いに危機意識を持つに至った次第です。
果たして、この映画は、今の日本に必要な作品だったのでしょうか・・・。
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観てびっくり。参りました。これほど見ながら考えさせられた作品も久しぶりです。いつ以来かわからないくらいに。
この作品は、見る人全ての人に課題を突きつける映画ですね。
「あなたなら、どうなの?」
天国に行くときに持っていけるただひとつの思い出・・・。
私は答えが見つかりませんでした。今は、まだ。
う~ん。選ばない選択もありか・・・。それもなぁ。
答えが見つかるまで考え続けることになりそうです。
厄介な映画です。(笑)
さすが是枝作品。文句なしです。
今一番誰かに紹介したい作品となりました。
クリックをお願いします。


また、日本中の人から(素人玄人問わず)「~さん」と敬愛の情をもって呼ばれる役者も「健さん」以外に思い浮かびません。「寅さん」がいるじゃないかという意見もありますが、あれは役名であって、渥美清本人をさすものではありません。
かつては映画スターを「勝新」「裕次郎」「錦之助」「旭」「文太」などと親しみを込めて呼び捨てにしていたと思いますが、「~さん」付けされる人はほかに思い浮かびません。よく似たものとしては市川雷蔵の「雷様」くらいでしょうか。少し違いますが・・・。
こういうとこからも、高倉健という役者が、日本において特別な存在であったのだということが伺えると思います。
私の死んだ父も、健さんが好きでした。「ぼそぼそ話して、何言っているのかよくわからない・・・。」などと文句をつけながら、健さんの映画を観るか?と誘って断られた記憶がありません。映画を観たあと、やはり何か文句を言っているのですが、なぜかとても嬉しそうでした。そして、最後に「やっぱり健さんじゃなぁ・・・。」と一人納得している始末。そんな父の姿を見て、「健さんは特別なんだ」と思いながら育ち、いつしか私にとっても特別な存在になっていったように思います。
実は、「寅さん」もそうなんですよね。寅さんも特別な存在です。映画のキャラクターを超えた存在として、私や私と共に生きてきた人々の中では親戚や家族に似た存在としてずっと身近なところで生き続けていました。だから、やっぱり「~さん」がつくのかなぁ。
でも、寅さんと健さんは全く違います。当然ですが(笑)。
寅さんは、年に1度か2度会って、お互いの無事を確かめ合い喜び合う・・・。そして、「あぁ、まぁこうして今年も寅さんに会えたからよしとするか」「それにしてもやっぱり寅さんは寅さんだなぁ」などと、日々のあれこれを笑いながら洗い流してくれる・・・、日常をリセットしてくれるありがたい存在であったように思います。
健さんは違いますね。たまに無性に会いたくなるんです。そして、確かめたくなる。
健さんは、私たち日本人の、特に日本の“男たちの基本”なのではないでしょうか。
人それぞれに理想的な男性像があると思います。それは、先ほど例に挙げた「勝新」「裕次郎」「錦之助」「旭」「文太」などが演じたキャラクターたちであったり、スポーツ選手を始め様々な分野で活躍した人たちの中に自らの理想像を見出して自分自身に重ね合わせてきたように思います。
でも、そうした理想像に共通している日本男児の最も基本的な部分を演じてきたのが、高倉健という役者であったのではないでしょうか。だから、私たちは「健さん」の映画を観て確かめるのです。そして、やっぱりこうなんだ・・・と確認して、次の一歩を歩み始めるのだと思います。
小田剛一(健さんの本名)が、どのような人物であるかは分かりません。
しかし、高倉健として、“男たちの基本”を演じ続けてくれている健さん。
そういう存在であり続けるために決して私生活を公にしない健さん。
80歳を越えてなお、“男たちの基本”であり続けることができる健さん。
高倉健という役者と、同じ時代を生きていられることの幸せを感謝しないではいられません。
「あなたへ」
この作品でも、高倉健は見事に“健さん”を演じてくれていました。
物語も演出も他の役者の演技も映像も音楽も、その全ては健さんが“健さん”であるためのものであったように思います。
だから、申し分ありません。素晴らしかったと思います。
しっかりと“男たちの基本”を確認いたしました。また明日から自信を持って歩んで行けそうな気がします。
“健さん”なき日本映画界など想像できません。
しかし、この映画の公開にあたって、TVのバラエティー番組にゲスト出演するとかNHKの密着取材に応じるとか、これまでにない動きを見せていることが、少し気がかりです。
高倉健での幕引きを意識してのことでなければ良いのですが・・・。
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何といってもドラマがしっかりしているところがいいですね。このような作品では、派手な演出だけが目立って、肝心の物語の部分がご都合主義のお粗末なものが多いのですが、このシリーズは海上保安官に対するリスペクトがドラマをしっかりと下支えし、仙崎という男の生き様を通して、私たちが忘れてしまいかけている熱く大切な思いをストレートに伝えるという一貫したコンセプトがしっかりしているので、見ていて安心感があります。
同様の成功例に「踊る大捜査線シリーズ」がありますが、残念ながら最近少し迷走気味ですね。今度公開される最終話?に原点回帰を期待したいと思います。
キャスティングが素晴らしい。
仙崎と環菜、そして吉岡・・・。この作品とともに成長してきたそれぞれのキャラクターを、お馴染みの面々が生き生きと、愛情たっぷりに演じているなぁと感じました。嬉しくなりますね。そして、今回新たにメンバーに加わった仲里依紗や伊原剛志などが物語に広がりを作ってくれました。これも嬉しい。
何の違和感もなく物語の世界にどっぷりと浸ることができる、これが理想的なキャスティングなのだと思います。その意味でも、本作は大成功ですね。
それにしても仙崎こと伊藤英明は素晴らしいですね。何がって、有無を言わせぬその肉体。シャワーのシーンで、佐藤隆太を圧倒していました。1作目から見ている多くのファンも、彼の見事な後ろ姿を見て大いに納得したと思います。やはり、仙崎こそ海猿の中の海猿なんだと。
前作は3Dということを前面に出しすぎて失敗したように思います。本来なら幕を閉じるはずであったろう海猿シリーズが、こうして期待以上の出来で見事に復活したことを心の底から喜びたいと思います。
スケールの大きさ。老若男女、みんなが楽しんで感動して前向きになれる物語。作品と共に成長する愛すべきキャラクター・・・。
「海猿」は、ついに史上最強のシリーズ映画になったのではないでしょうか。
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そして、未来からの預かりものである子供たちを如何に育てるか、つまり教育とはどうあるべきなのかということも深く考えさせられました。
さらに、学ぶことに年齢は関係ないということ、学ぶ権利は一生涯保障されなくてはならないことを学びました。
私たちの国でも、様々な理由で学ぶ権利が保証されず、文字を奪われてきた人達がいることを忘れてはいけないと思います。
私たちは、歴史から学び、前進しなくてはなりません。
実在のケニア人、キマニ・マルゲ。“最高齢の小学生”としてギネスブックに登録されているそうです。この人の生涯から、私たちは様々なことを学ぶことができると思います。そして、私たちの周りにもいる”もう一人のマルゲ”の存在にも気づくだろうと思います。
映画は娯楽であるとともに、いろんなことを私たちに教えてくれます。いつかのどこかのお話である物語を通して、今とこれからの私たちのことを考えさせられました。
多くの人に見ていただきたい、そして語り合いたい映画がまたひとつ増えました。
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私たちはあらゆる価値観の中で自分のポジションをそれなりに確保し、それを維持していくために、毎日あくせくとつまらないことに心を砕きながら生きているように思います。一体、何のための人生なのでしょうね。
主人公は大学教授。一般的には羨ましい立場ですね。講義や著述で忙しさを演出し、時折教授としての威厳をちらつかせて・・・。古今東西、大学の先生方にはこうしたお方が多いような気がします。
でも、彼はわかっています。同僚や学生にもうすうす気づいていますね。彼の姿に何のリアリティーもないということを。ただ、それらしくあるための虚しい努力が作り出した虚像。ある程度はごまかしが効くのですが、彼の場合はごまかす努力さえ怠っているというか、もう完全に現実逃避状態です。
妻に先立たれ、子供は独立して海外へ。退職までの年数を考えれば、今さら努力する気持ちになどならない気持ちは充分理解できます。なんとか、このまま無事勤め上げて、静かで安定した余生を・・・と考えているのでしょうね。
でも、虚しいなぁ。
心の隙間を埋めるために、亡き妻を思ってピアノのレッスンに取り組んでもなおさら虚しくなるばかりです。
そんな生活の中に突然飛び込んできた2人の”訪問者”。不法滞在者として息をひそめるようにして生活している彼らの人生は、不安定極まりないけれど、リアリティーに満ちています。2人の生活も嘘で成り立っているということは否定できないけれど、それは現実を逃避するためではなく現状を打破するためのものであって、自分らしく生きるためについた命懸けの嘘なんです。つまり、嘘によって実像を守り抜いていると言えるのではないでしょうか。
ジャンベの奏でるリズムがいつしか教授の心をほぐし、生のリズムを蘇らせていきます。
そんな時、事件が。
そして、もう一人の“訪問者”。彼女が彼の心の扉をノックします。
その国で自分の可能性を探りながら精一杯生きていこうとしている若者に対して、それを許し認め受け入れられない国家とは、そもそも何なのでしょうね。
いい奴なのに。何も悪いことなんかしていないのに。なぜ?
そして、愛も引き裂いてしまう。生きるための夢も希望も否定されてしまいます。
国籍、宗教、その他様々なフィルターで濾されて残ったものだけしか認められない。それがあの“自由の国”なのでしょうか。
何を青臭いことを・・・。 その通り!
そんなこと言っていたら、9.11は日常茶飯事のこととなって、世の中の秩序はますます乱れ、安心して暮らせる土地などなくなってしまうじゃないか。
そうなんですよ。でもなぁ。
国民を国家に繋ぎ止めるためには何だってする。
国家は国民の生命と財産を守らなければならない。
これが正義か・・・なぁ。
でも行き過ぎた正義は・・・なぁ。
教授が叫びます。
「私たちは、なんて無力なんだ!」
本来の自分を取り戻し、やっと一歩踏み出そうとした時に、すべてを引き裂き奪い取っていく大きな力。どうすることも出来ない自分の無力さを知って、彼は初めて考えたんでしょうね、「私たちは何のために生きているんだ。私たちが本当に守らなくてはならないものは何だったんだ。」と。
アメリカが抱える矛盾。いや、人類が抱える最大の矛盾がここに描かれているように思いました。
ラスト、教授が打ち鳴らすジャンベの響き。怒りと悲しみに満ちたその音色は、”本当の自由”を求める全ての人々の叫びに聞こえました。
私たちは無力だ。でも、このままでいいはずがないだろう!
静かだけれど、とても深くて熱い作品でした。
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アメリカ中西部ミズーリ州の貧しい寒村。とにかく疲れ果てた村、そして人々。ここには夢のかけらもありません。
17歳の少女リーの境遇は過酷です。ドラッグがらみの犯罪で投獄された父、現実に耐えきれず心を病んでしまった母、幼い弟と妹。親戚も近所も友達もみんなそれぞれに問題を抱えていて頼りにならない…。彼女がひとり懸命にこの一家を支えています。そして、さらなる問題が彼女とこの家族を追い詰めていきます。
とても静かな作品です。途中、目を覆いたくなるような場面もありますが、全体的には静かな語り口で淡々と描いているように思いました。でも、全く退屈しない。というか画面から目を離すことはできませんでした。リーの、そして彼女を取り巻く人々のそれぞれの人間像が次第に浮かび上がり、それぞれの痛みや悲しみが伝わってきます。
そのように感じられたのは、ひとつひとつのカットにとても説得力があるからだと思います。とにかく主人公リーを演じたジェニファー・ローレンスが素晴らしい。彼女の演技があったからこそ、この映画がこれほどまでに成功したのだと思います。まだあどけなさの残る表情からすべてを包み込むような慈愛に満ちた表情、そして決して折れない強さを秘めた表情まで、完璧にリーを演じ切っていました。とにかく素晴らしい。必見です。
インディペンデント映画ゆえのこじんまりとした観は拭えませんが、細部まで丁寧に作られたこんな映画が、私は大好きです。
このジェニファー・ローレンスについて、誰かと語り合いたいなぁ(笑)。
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80キロもの道のりを24時間かけて歩き通す。この高校生活最大のイベントの意味とは・・・。
意味などなくていい。そんなものは後からついてくるものだと思います。それぞれがそれぞれの答えを探しながら歩く、自分がどんなことを問いかけているのかもわからないままに歩いている、そんな時間が尊いのだと思います。
私の高校には残念ながら「歩行祭」といったものはありませんでしたが、「ファイヤーストーム」という行事がそれに近いものであったように思います。海岸でクラスごとに分かれて肩を組み合って歌う旧制高校の寮歌。歌の意味など理解してはいなかったけれど、どこにもぶつけようのなかったのであろうそれぞれの思いをその歌詞に重ね合わせて、轟々と燃え盛る炎に身を焦がしながら声を枯らして歌ったあの時間と空間は、今も他に置きかえることのできない特別な思い出としてヒリヒリと私の中で生き続けています。
大学時代には「大貫歩」という行事がありました。これはまさしく「歩行祭」です。夜を徹して大学まで歩き続けたあの日の思い出は、これもまた格別のものとして今も鮮やかによみがえってきます。あの時仲間たちと何を語りながら歩いたのかは覚えていないけれど、彼らの笑顔とひんやりとした夜の風、美しかった蛍の光は忘れることができません。
このような時間があって、今の私があるのです。
この映画に描かれているそれぞれの高校生たちは、それぞれの人生の中にこの24時間を刻み込んでいくのですね。彼らが見つけた答えは人それぞれだろうけど、きっとその後の人生に”意味のある何か”を手に入れたことと思います。
歩くというのはとても哲学的ですね。
あの時の仲間とまた歩いてみようかな。”最後尾”でゴールしたあの道を。
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1963年に世界中で『ドミニク』という歌が大ヒットしたそうです。日本でもペギー葉山やザ・ピーナッツが歌ってみんなに愛唱されたということですが、当時の私はまだ幼く、残念ながら記憶には残っていません。この映画は、この曲を作り、そして歌ったベルギーの歌手ラ・スール・スーリールの物語です。
まず、この物語が実話を基にして作られていることが重要であると思います。ある歌が生まれ、人々に愛され、歌い継がれていく。とても喜ばしいことであるとは思いますが、その背景には様々な人間模様があるわけですね。
この『ドミニク』という歌は、とても軽やかで親しみやすく、一度聞くとつい口ずさんでしまうような楽しい歌です。しかし、キリスト教の教えがベースとなり、歌う人や聞く人を幸せにしてくれるこの歌に、まさかこのような哀しい物語がそこにあったとは…。
いつの時代にあっても、自分らしく生きることのいかに難しいことか。
まだまだ封建的な考え方が色濃く残っている時代、女性がひとりの人間として自立していくことは本当に大変であったことと思います。ただ、自分が生きている意味が知りたいだけなのに…。自分の人生の手ごたえを感じていたいだけなのに…。
色々な見方ができる映画だと思います。
”こんな時代があったんだ”という感想を持つこともありだとは思うのですが、今はそんな時代の延長線上にあることを忘れることなく、”今”という時代を見直すために観るという見方もありであると思います。
映画としても面白いです。'60年代のヨーロッパの空気を味わうこともできるので、そんな動機で観てもよいのではないでしょうか。きっと後悔はしないと思います。プラスαがどれだけあるかは、観る人の観た時の状況次第…といったところでしょうか。
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面白かったし、なるほどと感心させられたし、役者もみんな期待通りに頑張っていたし、特に突っ込みどころもないんだけど、この作品をして最高傑作というのはいかがなものかと思いました。無難にまとめた・・・みたいな感じでした。
ミステリーをあまり好んでみない私としては、2転3転して最後になるほどという展開は新鮮なのですが、「スティング」や「ユージュアル・サスペクツ」を観た時のようにエーッと叫びそうになるほどの驚きも、「半落ち」を観た時のような魂を揺さぶられるほどの感動もありませんでした。だから、最高傑作とは認められません。
でも、129分間、しっかり作品の世界に引き込まれ、十分に楽しませてもらえたので、☆4つつけたいと思います。
ただ、この映画に関しては田中麗奈の役はいらなかったように思います。大好きな女優さんなのですが、彼女の登場場面が全体の流れに竿を刺してしまっているように感じられました。存在感のある女優だけに、あのような使われ方でも全体に影響を及ぼすのだなと思います。
それともう一つ。新垣結衣はとても可能性を持ったスケールの大きな女優だと思うのですが、使われ方が偏っているというか、いつ観ても眉間にしわを寄せて・・・、観ていてつらくなる時があります。もったいないなぁと思う次第です。
溝端淳平・・・頑張れ!
期待していただけに少し残念な部分もありましたが、面白い映画だとは誰に対しても自信を持って言うことができる作品です。あとは、好みの問題ということで。
原作は読んでいません。これから読もうかどうしようかと思案中です。読めば評価も少し変わるかな。
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大ヒットした過去2作を、私は全く評価していませんでした。
ヒットする理由はわかるのですが、こうした映画がもてはやされることに違和感と危機感を覚えたものです。
平成になって十数年、バブル崩壊後の混乱と不安の中、自信を失いつつあった私たちが昭和を懐かしく振り返られる過去としてとらえ始めていたタイミングで、VFX技術を駆使してかつての街並みを再現した「ALWAYS 三丁目の夕日」が発表され、多くの人々が郷愁にかられたのは当然のことのように思われます。
特に第1作の昭和33年という時代設定がよかったのでしょうね。戦後の復興期から「もはや戦後ではない」と自信を取り戻しつつあった昭和30年代前半の日本の情景には、現在の私たちがとうの昔に無くしてしまった未来に向かっての夢や希望が満ち溢れていたように思います。そのシンボルが東京タワーであり、皇太子ご成婚であり、東京オリンピックであったのではないでしょうか。また、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が(いわゆる『三種の神器』)が普及し始めたころの興奮に満ちたエピソードは、どこの家庭や街々にも共有できる思い出であり、何かしら勇気と元気とぬくもりを与えてくれる魔法の話題であると思います。
だから、映画製作技術の進化によって当時の様子をこれでもかというほど見事に、またサービスたっぷりに蘇らせたこの作品がヒットしないわけがないというものです。まさに「待ってました!」とばかりに受け入れられるのは必然というべきものです。
私たちはこれまでも過去を美しくコーティングして振り返ってきました。「懐かしのメロディー」「TV探偵団」「あの人はいま」等々。そして、昔は良かったなぁと何故か穏やかな表情を浮かべて、しばしの間の現実逃避・・・。それで、ちょっと元気を取り戻すのでしょうね。だから、それはそれでいいんだと思います。
でも、前2作を私は素直に受け入れることができなかった・・・。
なんか、薄っぺらな感じがしたんですよねぇ。映画というよりも見世物ような感じがして・・・。もう一つ肝心の物語に共感できなかったんです。「過去が振り返りたいのなら、当時の映画を見ればいい。」なんて考えてもいました。それに、「こんな、きれいにコーティングされて何が懐かしいだ!昔はもっと汚かったし、臭かった・・・。」なんて。作り物の過去に、何とも違和感がぬぐえなかったわけです。
しかし、今回はあまりそうしたことが気になりませんでした。この映画の景色に慣れてきたせいもあるとは思うのですが、物語がしっかりとしていたからかもしれません。
堀北真希が演じる「ろくちゃん」の恋と須賀健太が演じる「淳之介」の成長を通して、鈴木家と茶川家を取り巻く人間模様が丁寧に描かれていました。おなじみの出演者もそれぞれに役者として充実しているのでしょうね、みんなのびのびとそれぞれの役を演じ切っていました。特に、須賀健太や小清水一揮の二人が好青年に成長していたことが、身内の子たちの成長のようにうれしく感じたのは、やはりシリーズ作品の良い所でしょうか。そういえば、主演の吉岡秀隆も「男はつらいよ!」シリーズで私たちに成長の様子を楽しませてくれていました。この映画、いよいよ“寅さん”のように国民的な映画になっていくのでしょうか。
そして、特筆すべきは堀北真希ですね。彼女が演じる「ろくちゃん」は、素朴で純情で可憐で頑張り屋という、あの頃を知っている私たちの世代が思い描く理想的な女の子だと思うのです。その役を、見事に演じきっている。これは、できそうでなかなかできることではないと思います。彼女あっての「ALWAYS 三丁目の夕日」ではないでしょうか。
他に、森山未來はやっぱり素晴らしいです。彼がスクリーンに出てくると、グッと締まるように思います。決して男前じゃないのにこれほどの魅力を持っているのはなぜか?役者としての“何か大切なもの”を彼は持っているのでしょうね。
今回は、なぜか素直に泣けて笑えました。私の気持ちが弱っていたのか(笑)、映画の完成度が高かったのか・・・、きっと後者だと思います。唯に懐かしさを売りにするのではなく、日本人としての大切なものを思い出させてくれた今回の物語に、私は共感できました。これなら、次作を期待してしまいます。素直に(笑)。
さて、次作は「万国博覧会」でしょうか?
もしそうであるならば、名作「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」との勝負ですね。
期待したいと思います。
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何事につけ気位の高いフランス人の鼻をへし折ったアメリカの田舎者たちの奮闘には、拍手喝采です。また、このような対決を企画したスティーヴン・スパリエという当時34歳のイギリス人にも最大限の賛辞を送りたいと思います。
今でこそワインは私たち日本人にとっても身近な飲み物となり、スーパーマーケットに行くと世界中のワインを安価で手に入れることができるようになりましたが、私の少年時代にワインを飲むおしゃれな日本人なんて、少なくとも私の家の近所にはいませんでした(笑)。それが今や日本各地のワイナリーで作られるワインも充実し、日本の食卓にも違和感なくワインボトルが置かれる時代になっています。
そのきっかけを作ったのが、この映画の題材になった「パリ・テイスティング事件」であるようです。
フランス国内はもちろん世界中で世界1と考えられていたフランス・ワインが、これまでまともに相手にもしていなかったカリフォルニア・ワインに完敗したという衝撃的な事実。これは、もはや世界的な事件であったと思います。
その後、ワインに対する見方が変化し、世界中のワイナリーが活気づいたことは想像に難くありません。結果、現在のように本当においしいワインをみんなが楽しめる時代になっていったのです。
スティーヴン・スパリエの功績は、我々庶民にとってはノーベル賞ものです(笑)。
1970年代のアメリカの雰囲気も心地よく、のんびりと、ちょっとワクワクしながら観ることができるこの作品は、カリフォルニア・ワインのように口当たりのが良くて後味抜群の映画でした。
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この映画を観た機会にちょっと確かめてみて、驚いたことがあります。それは、内戦を経て1939年から1975年までの実に36年間にもわたって独裁政権下にあったということです。その間の状況など詳しいことはよく分かりませんが、私が高校生になるころになってようやく民主化したという事実に、驚きとともに違和感を感じてしまったわけです。
特に近年のサッカー大国であるスペインのイメージからは、およそかけ離れた印象を持ちます。ただ、多民族国家でバスク独立運動などがあるということや、それゆえにサッカーのエル・クラシコ(レアルマドリードvsFCバルセロナ)の試合が異常に盛り上がるということなどを聞いたことがあります。
あまり予備知識なしに観たこの作品ですが、それでも十分に心を打つ素晴らしい作品でした。内戦から独裁政権時代に突入した頃の物語ですが、芸人たちの視点からその時代が見事に切り取られ描かれています。
芸人というのは、古今東西、いつの時代も社会の底辺に置かれていたのでしょうね。(今もそうであるとは思いません。また、そうでないことを願います。)それゆえに最も時代に翻弄されてきた人たちであったように思います。そして、時代を読み取り、批判し、抵抗しながらも利用されてきた・・・。時代を描くには格好の素材なのかもしれません。これまでにもたくさんの名作が作られています。
このような映画を観ると、私たちの今の暮らしが多くの犠牲の上に立っているということを感じないではいられません。民主化され、ある程度の生活がほぼ保障されている現在の日本に住んでいると、幸福の意味を見失いそうになるときがありますが、世の中は少しずつ良い方向に進んでいるのではと思う時があります。
現在、世界中の多くの国では言論が保証され、自由な往来が可能であり、自由に経済活動ができています。男女問わず選挙権を持ち、自分たちの意志で国の方向性を選択することも一応できる体制にはなっています。
いやいや、世界をもっと見給え。いったいどれほどの人間が今もなお理不尽な死を強いられていると思っているんだ。これで本当に良い方向にいっているといえるのかというご意見もあろうとは思いますが、今から50年前、100年前と比べてみると、それでもやはり前進していると思うわけです。
そして、これまでの時代の流れの延長線上として、今はまだ独裁等によって奪われている人々の人権も、いつか必ず保障される時代が来ると信じたいのです。
40年ほど前のスペインであったのであろうこの物語は、私たちに決して過ちを繰り返してはならないという教訓と、いつか未来は拓かれるというのだという希望を与えてくれます。このような作品を世界中の様々な国が制作し、それぞれの国の過去と現在を確かめ合えることができれば、私たちのこれから進むべき未来が見えてくるように思います。
作品中に描かれる素晴らしい芸の数々。時代を超えて愛されてきた芸人たちの生きざまを愛情たっぷりに描いているこの作品は、観る者の心を解きほぐし、深い感動に導いてくれます。特にラスト10分は、涙なくして観ることができませんでした。
多くの人に観て頂きたい作品です。
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フィンランドの北極圏・ラップランドで撮影されたこの作品は、上映時間も80分ほどというこじんまりとした作品ですが、時代背景やその土地の雰囲気が十分に伝わり、サンタクロースを誕生する経緯が他にはない説得力をもって描かれているように思えました。
サンタクロース誕生秘話には聖ニコラウスの有名なお話がありますが、私にはこの作品の方がすんなりと受け入れられました。ヨーロッパ各地に色々なお話があって今の形にまとめられたのでしょうか。いずれにせよ現在のクリスマスは、特に日本でのそれは本来のものとはかけ離れたものになっているように思うのですが・・・。
とても美しく、わかりやすく、心温まる物語なので、ぜひ子供たちに観てもらいたい作品ですね。
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生きるか死ぬかはクジ次第・・・。一兵士にとって、一人の国民にとっての戦争とは、いかに不条理なものであったのか。
お国のためだからと、赤紙が届くと出征するしかなかった時代。兵士になったとたんに、シラミにまみれて掃除もしなくてはなりません。どこに行くのかもしれずに暗闇の海に船出しなくてはなりません。撃たれることが分かっていても突撃しなくてはなりません。それがどんな意味を持っているのか考えることも許されなかった時代・・・。「そうするしかないからそうしていた」のでしょうね。
兵士ばかりが戦争をしているわけではありません。”万歳!万歳!”と見送って、ほんの数ヶ月で白木の箱を受け取る年寄りや女、子供。持っていき場のない怒りや悲しみを、みんなグッと飲み込んでいたのでしょうか。「自分ばかりではないのだから」と諦め、慰めて埋め合わせることができる程の喪失感ではないと思うのですが。
NHKのTVドラマ「坂の上の雲」では、たくさんの兵士が命を落とすシーンが描かれていました。参謀たちにとって兵士はコマであり数であり、決して自分と同じ人間なのだという認識は捨て去られているようでした。一人一人の人生、それぞれに家族がいて、それぞれの事情があり、思いや願いがあるなどということを考えていたら、作戦など立てることはできません。たとえ味方の兵士の大半を失うことがあっても、この戦いに勝たなくては何の未来もないのだという見地から突撃を命じる。命令が出たら「そうするしかないから」兵士は突撃するわけですね。異議を唱えたり逆らったところで、「そうする」以上の結果は期待できないのですから。
結局、ひとたび戦争が始まると、兵士になろうがなるまいが個人の存在は否定され、何分の1の存在としてクジ運に任せるしかないということです。そして、その結果がどんなものであろうとも引き受けるしかないのですね。
「二度と戦争をしてはいけない。」
こんな当たり前のことを、私たちはちゃんと語ることができるでしょうか。
戦争を実感をもって語ることができる世代の人が高齢になった今、私たち”戦争を知らない大人たち”はどうすればよいのか。”何にも知らない子供たち”に、責任を持ってこの国の未来をバトンタッチするために今すべきことは何なのか。
私たちがしっかりしていないから、98歳になった今も新藤監督が”反戦映画”を自ら作らなくてはならないのではないでしょうか。もっと伝えておかないと、私たちにはまだ任せられないと。
いつまでも”戦争を知らない子供たち”などと歌っているわけにはいきません。
この映画を観てもう一つ感じたことは、人間のしたたかさですね。
人は簡単に死んでしまう弱い存在けれど、なかなか死なない強さも持っている。さすがは新藤監督。この悲劇的な物語をカラリと描いて、人間が本来持っている生き物としてのしたたかさを見せてくれます。これは、戦後の復興を体現してきた世代からの我々へのメッセージのように思いました。
最後にキャスティングについて。
大竹しのぶが素晴らしい演技を見せているのですが、どうもこの役には合わないという声がちらほらと聞こえてきます。そこで、誰ならもっと良いだろうかと考えてみました。木村多江なんかどうでしょうか。他に浮かびません・・・。
クリックをお願いします。


「中の下」を演じさせたら日本一です(笑)。
どうすればこのような”とても日常的でありながらどこまでも非日常的な”日常が描けるのでしょうか。作者の生い立ちを調べたくなります。
人間、開き直った時に本当の力が発揮されるようです。そして、心が解放され、周囲と共鳴する・・・。その姿は美しくもあり滑稽でもあり。映画とは、そうした人間の姿を描くものなのではないでしょうか。そして、それをどのようなフィルターを通して描くかなんですよね、監督の作業というのは。
石井裕也監督のフィルター、とっても気に入りました。ちょっと歪んで見えるところがたまらなく面白いです。
そして、やっぱり満島ひかり。
この若さにしてこの剥き出し感。
今後追っかけたい女優№1ですね。
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それぞれの事情を抱え、バラバラになった心を一つにまとめるのは、決して譲ることのできない誇りを共有することでしょうか。
今の日本だからこそ、観るに値する作品なのかもしれませんね。
丘を山にするという一見無謀とも思われる試みが、今の私たちには必要なのではないでしょうか。そうして取り戻すべき誇りが、私たちにもあると思うのです。
是非、観てください。大切なことを思い出させてくれます。
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蒼井優と江口洋介を担ぎ出し、洋菓子店を舞台にちょっぴり切なくて可愛らしい作品を作れば、みんなが喜ぶと思っているのでしょうか。
このように安易な企画で、平凡な演出、新鮮味のないキャスティングの映画は、勘弁して頂きたいのですが・・・。と思いつつ、蒼井優見たさに観てしまう哀しさ(苦笑)
この残念な感じ、「神様のカルテ」を観た時と同じ・・・。やはり、同じ監督でした。
深川栄洋監督の作品では「狼少女」が好きなんですけど、なんか毒気が抜けてしまったようで。コンスタントに作品を発表するためには仕方ないのでしょうか。
蒼井優には、このような作品には出て欲しくありませんね。もっと作品を選ばないと。これまでのイメージを打ち破るのか、もっと蒼井優化するのか。いずれにせよ、誰でもできそうなこんな役は避けた方がよいと思います。無駄に擦り切れてしまいそうで心配です。
江口洋介は、やはりテレビの人なんですね。
江口のりこは、映画の人です。健在ぶりに安心しました。
TVで出来るものはTVで作りましょう。
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この2人が喋ると、どんなセリフも一瞬にして完成された漫才のように私たちの心惹きつけてしまいます。鹿児島の景色も福岡の景色も、熊本の景色だって、この2人の繰り出す関西弁をなんの抵抗もなく受け入れているように感じられました。そして、ただ関西弁が面白いというのではなく、この2人の背負っている”生活”の匂いを見事に表現しているようにも思われました。そこに是枝監督の凄さと、まえだまえだの天才(本人たちが意識している以上の)を感じさせるのです。
かつて”トゥナイト”という漫才コンビがいました。なるみとしずか。この2人もまたしゃべくりの天才でした。彼女たちの喋りには景色があったように思います。だからでしょうか、犬童監督が2人を主役にして「二人が喋ってる。」という映画を撮っています。なぜかこの作品を思い出しました。
素晴らしい脇役に恵まれ、子どもたちが生き生きと演技をしています。是枝監督は、子どもを描くのが上手ですね。演出しないことが最高の演出法なのでしょうか。突き放したようなカメラワークが、生々しい子供たちの生を引き出しています。
彼らの信じる”奇跡”は、純粋であるがゆえにゴツゴツと角張っています。そして、どこか哀しい・・・。精一杯生きるのは、案外哀しいことなのかなぁ。
それに比べて大人たちはどこかのんきです。いろいろあって、もう純粋じゃいられないから適当に丸くなっているのでしょうか。でも、年をとってもやっぱりどこかで”奇跡”を信じているんですよね。そうじゃないと生きていられないから・・・。
さて、私は何を叫びましょうか。
やっぱり、チョッピリ哀しい叫びになってしまうのかなぁ。
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そして、明くる2011年の3月11日。まさかあのような大地震と大津波に日本がのみ込まれるとは…。今日現在の死者は15,822人、行方不明者が3,926人。この中に救える命はなかったのでしょうか…。
今、私のように被災地から遠く離れた地に住んでいた者が神戸の街を歩くとき、震災当時のことを思い起こさせるものはほとんどありません。驚嘆すべきスピードで復興が成し遂げられたと思います。
しかし、現地にあって被災から復興を経験された人たちにとって、これまでの道のりがどのようなものであったのか。正直、全くわかりません。これまで、分かろうともしていなかったようにも思います。「久しぶりに行ってみると、神戸の街が昔のようにきれいになって…。」こんな言葉を、現地の方々はどのような思いで聞かれるのでしょうね。
だから、見事な復興などとは簡単に口にすることはできません。また、震災の傷跡が見られないなども…。
また、そうしたハード面だけではなく、心の問題としてこの15年を振り返った時、想像を絶する様々な出来事があったんだろうなと思います。でも、そのことも全く考えることができていませんでした。今、神戸の街を歩く人たち。そして、かつて神戸の街を歩いていた人たち。当たり前のように日常が過ぎ去っているように見えるけれど、ひとりひとりの心の中にはさまざまな思いがあって、今なおけりがついていないことだっていっぱいあるんだろうと思います。
阪神・淡路大震災は決して歴史上の出来事ではありません。今もなお続いている問題なのです。そんな当たり前のことを、この作品は教えてくれました。
東日本大震災から7か月が過ぎようとしています。被災地から遠く離れた地で安穏と生きている私に、現地に住む人たちのことの何がわかるというのでしょう。何にも分かっていないんです。そして、何もできていない…。
そんな私に、この作品はいろんなことを語りかけてくれました。
問題は、見えることだけではなく見えていないところにもたくさんあるんだってこと。
せめて、この作品を、一人でも多くの人に広めていきたいと思います。
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